7月14日(日)暑くて4時半に起きてしまった朝

 うす晴れ。既に30℃ちかい気温。今日もあちゅくなりそーでふ。むかしは「男は黙ってサッポロビール」、べらべら愚痴をこぼしてはなりませぬ!って思ってた時期もあったけど、それはつまらんやせ我慢。決してイイ結果を生みません。で、今は、あちゅいあちゅいあちゅいあちゅいあちゅいあちゅいあちゅいの7連発。暑苦しいエントリで暑さを吹き飛ばしましょーーーーーー!




 さて、ちょっとサウナに入ってきます。しばし、ごめん♪



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 たらいま。うう〜、今日のサウナはシャワー付き。突然の夕立でずぶ濡れだあああああ!







 この世にフラットなどというものはありえないんすね。イデアみたいな永遠にたどり着けない理想の形態。平等、公平を旨とした共産社会だって、貧農、出稼ぎが逆にエリートになって労働貴族プチブルなんてのは生まれが卑しいとして虐げられました。家柄自慢てえのが「おらの家は代々小作人で」てえのがエリートへの道。なんであろうと差と言うんは付いてしまうんすねぇ。タハハ





 どうどう巡り:

 情報というものが唯一の実在であーる!って本を読んでます。シャノンの情報理論は古典ですが、量子力学における観測者問題とか、情報エントロピーとか、エネルギーも情報に帰結するとか、かなーりごたごたな議論になってまふ。でも、我らが認識しているこの世界は、我ら人間の情報把握力に依存していると思えば、情報が全ての基礎であってもおかしくはなーい!数学における公理みたいなもんが情報であると。
 我ら人間の思考というものは、物理的な臓器である脳によって限定されその中の指向性(思い込み)によって駆動されるのだとすれば、そのような曖昧なツールで思考の本質が追及でけるのでありましょうや?つまり思考を思考すると言う自己言及のループ!”情報”と言ふものは、その違いが分かるものにとってのみイミを持つのだ。自己の内部で合わせ鏡のようにグルグル回っているものが、果たして違いを認識できるものだろうかっ!はなはだ疑問である。
 「〜はない」という証明は実際問題としてはとても難しいですが、数学的には「〜はある」と仮定してそこから矛盾が生じることによってなされまふ。しかし自己言及は矛盾を生じますから、矛盾が挙証の元とはなりません。人間の脳は他人の脳のありようを分析することはできます。自分の脳も、あたかも他人の脳のように見做して分析することはできます。しかし自分の脳を自分が今感じているままに分析することはぜってーできません。その瞬間に他脳化してしまうからです。クオリア(深紅とか悲しい音とかの感覚の質感)が永遠に客体化でけない由縁です。(でも見せかけの客観化で日常生活に支障が無ければイイじゃん、つうきもしますがね。ぷぷぷ)