3月16日(金)わたしといま

 うすら晴れ

  近場で痛飲。新橋から銀座に回り数軒梯子。って昔し世話した奴の奢り(これも社用)だから金はなくても豪遊でける。金のない奴はおれんとこにこーい♪で顔だけで飲んでます。月島の詩人がおっちんだらすい。「言語にとって美とはなにか」を引っ張り出して見た。傾倒したってほどではないが、普通に注目していたおやじではあったな。むしろ現代消費社会の分析が面白かったので、そういう意味では残念だ。100歳まで生きて超高齢化社会を語ってもらいたかったなあ。レレレ、な、なみだが。これじゃ弁当なみではないか?タハッ


 自我というのと時間とは形式や構造が似ています。わたしが見て聞いて感じている世界はわたしだけのものですが、他者も多分同じように感じているのだろうな?と想像できますが、永遠に論理的な証明はできない。この世界のすべてはわたしというただ一つの視点からしか感じられないのです。同様に実際には今現在しか感じられませんが、過去については記憶の中、未来については想像の中。リアルな今ここを感じることはできません。このような構造は現実感の唯一性とも言えますが、人間が考え出した諸概念の中で「わたし」と「今」しか見つかっておりません。クオリア?の不思議。