こんにちは。ふぁれ。ひょとして夏日かも。カントを真似
て3時間サムポしたら汗かいた。轍を踏む道。
何にも書きたい事もない日の特徴は、やたらに近所を巡回
して時には半畳入れたり、ときには共感したエントリに無思
慮に乱入してみたり、またある時は手当たり次第にネットの
荒波をサーフィンしたりするんですぅ。
「そんなにまでして日記付けなくっても良いでしょ?」と
思う御仁もいるでせう。それは日記をず〜〜〜っと付けたこ
とのない人の言い草。数年間毎日毎日日記を付けてると、穴
を明けるのが怖くなってくるんすよ。プ こんなとこで経験
優位な言説を晒さなくてもエエだろう?ってな反論もあるかと
存知まするが、これはホンネ。(ねっ、弁当さん。)
意思の弱い軟弱者に良く見れる傾向つうものでやんすよ。
一端穴を空けたなら、もう永遠に再開でけないんじゃないか
な?つう不安。そしてこふいふ御仁は過去に何度もこういう
経験を積んでるんすよ。それがトラウマ。
で、けふはたちゅるくんの幻想力あふれる弁慶に感心しま
すた。
「存在する筈が、存在しなかった現実」と「存在しない筈が、
存在してしまった幻想」とのバランスがこの世を形造ってい
るのだと。むずかすいけど実感でける。この辺が詭弁つうか
文章力の奇才ですねぇ。
http://blog.tatsuru.com/2011/05/07_1001.php
今回の原発事故は「デインジャー」である。
「リスク対応」は十分であったと政府と東電と原子力工学者たちは言う。
たしかに、その通りなのかも知れない。
だが、「デインジャー対応」という発想は彼らにはなかった。
「デインジャー対応」というのは事故前の福島原発を見て、「なんだか厭な感じがする」能力のことである。
その「厭な感じ」が消えるように設計変更を行ったり、運転の手順を換えたり、場合によっては操業を停止したりする決断を下せることである。
それができる人間がそこにいれば、そもそも事故は起こっていない。
事故が起こっていないから、そのような能力を発揮した人が巨大な災厄を未然に防いだという「事実」は誰にも知られない。
それは「事実」でさえないのだから、知られなくて当然である。
けれども、そこから、そのような能力は「存在しない」という結論を導くことは論理的にはできない。
私たち人類は久しく「後一歩のところで破局を迎えたはずの事態」を繰り返し回避したことによって今日まで生き延びてきた。
むろん、「存在しなかった災厄」について、たしかなことは誰にも言えない。
けれども、「存在しなかった災厄は、それを無意識のうちに感知して、それを回避する策を講じた人がいたせいで存在しなかった」という仮定はあきらかに人間的能力の向上に資する。
存在しなかった災厄を、その存在しない故に誰にも褒めら
れず、秘かに回避した先人によって今現在が成り立っている
という透徹した慧眼によって、何千人という歴史の波間に
消え行きし名も無き勇者が慰霊されたる、この夕べかな。
ナムナム