8月1日(土)表現行為は受け手が主役?

 こんにちは。曇り。つうか薄日さす一日。気温はそれほど
高くないです。今日から葉月。葉が生い茂る真夏と思いきや、
葉落ち月が由来とは、今はもう秋かよ?誰もいない海。








 表現者(作り手)と鑑賞者(受け手)とは一方通行ではないよね。
受け手の役割もとても大きいですぅ。受け手の感性によって作品
そのものがとても大きく変化します。芸術作品は作者のこころの
奥底から湧き上がってくるもののホンの一部を掴み取って表現し
ます。その過程で変性したりもします。自分の意図しないものも
湧き出したりします。そして一旦表に出て作品となったら、それ
は作者から放れて一人歩きしますね。







 一方、受けての感性が大切だという話し。これは作品が意図せ
ずに存在している例なんか。たとえば河原の石ころ、路傍の雑草、
なども見方によればとても味わい深くココロを打つこともありま
す。ガラクタやゴミの山も光の当て方や切り取り方で芸術作品に
できます。つまり受け手の感性だけで自然の存在物も感動を与え
ると。








 どんなに素晴しい芸術作品も豚にダイヤということもあるし、
石ころでもその人にとっては素晴しい作品になりうる!という
ことは、受け手の内心が外に投影されて作品を共同制作している
と言えるのではないでしょうか。









 最近、サムポしながらデジカメで色んなものを撮ってたら、
こんな感想が湧いてきたので、ICレコーダに喋って入れたの
を今聞いて、書いてますぅ。デジタル生活も意外と便利ぢゃん。
だって、写真に撮ったり録音したりしないと、砂に滲みこむ水
みたいにみんな忘れてしまうんだも〜ん。ほんぢゃまた。







 
追記:作品の真贋

 これは難しい。いわゆるブランドに騙されちゃうからね。絵画
や書だって技術のある人がソックリに作れば、誰も気がつかなく
てモノホンで通ってるのがあるような希ガス。お札だって気づか
れなけりゃそのまま流通しちゃうからね。






 むしろ、作品の持つ芸術性よりも画材の特徴とか古さ、署名な
どの傍証によって鑑定しているほうが多いんぢゃないの?パロディ
のほうがモノホンよりも感動を与えるなんて逆転もあったりして。
現代は偽者の時代。開き直った偽者たちが跳梁跋扈している世界。






「偽者で何が悪いのだ!ぢゃ、本物ってなんだ?本物の定義を言
ってみろよ。」とかね。偽者は本人にしか分からんかもしれない。
何のこころの奥からの突き上げも無く、表面だけを技術で模倣し
ても作品は同じ。でも本人は分かってるからなんとかモノホンに
見せたがる。それでカッコつけて自己主張し、主張し杉て馬脚を
現すとか。自己中で肩書き振り回して格好つけて自己主張ばっか
で謙虚さの一かけらもないのが偽者の定義とすれば、政治家の
大半は偽者ってことかいなあ?はあぁ〜〜〜








 モノホンな人を実際に見ると、カッコつけなくって謙虚で、
生活臭プンプンで、その辺の市井のパンピー、しょぼいオジサン
やオバサンみたいのが多いつうのは、我輩の拙い経験に照らして
も顕かな〜り!ど〜ぢゃ、反論あるか。(なぜなら、これが我輩
のモノホンの判定基準であるからして、わたしのモノホンは上記
しかいないのは理の当然。A=Aくらい当然なのですよ。プ)







EX)・いかにも学者然としている学者
   ・いかにも作家然としている作家
   ・いかにも芸術家然としている芸術家
   ・いかにも評論家然としている評論家
   ・いかにも政治家然としている政治家
   ・いかにもブロガー然としているブロガ
   ・いかにもパンピー然としているパンピー
   ・いかにも俺然としている俺
         ・
         ・
         ・

などなどが、我輩から見ると、みんな偽者なのじゃ。プププ
そこには意外性もなく、しかして驚きも感動もない詐欺師集団。
ばっかやろー!