夢とリアルの判別法を突如思いついたYO


こんばんは。曇り(予報に反してときどき雨)、肌寒し。
今日で11月はおしまい。日比谷公園の大イチョウの木がまっ黄色。
松本楼で昼食。カレーを食う。頗る旨し。




さて、人の世は「胡蝶の夢」か、はたまた「邯鄲の夢」なりしや?
夢かうつつか、現かゆめか! 自分とはなんぞや。過去の記憶の総体か。
で夢の行方を見つめて見れば、基礎定位のシステムによる身体感覚が
夢と現の境目とか勝手に見定めたれど、昨日見た夢は妙にナマ生しかった。




で、子供の俺たちはみんなで崖を下っているのですが、始めは実に
ゆるい勾配なのです。その内にだんだん傾きがきつくなってきて、60度
くらいになる。傍らの子供たちはみんなケラケラと笑いながら転げ落ちて
行く。でも俺は急に怖くなって身動きできなくなり、傍らの草を掴んで
震えている。見下ろせばもうそこは断崖絶壁。必死で草の根を掴んで
ズリ落ちないようにしている時の俺はもう基礎定位の身体感覚を感じ
まくりでビビってる。




でありますから、夢にだって身体感覚はリアルに出てきますぜ。っつう
ことになりますた。それでふと思いついたんだけど、実はリアルと夢の
もう一つの判別法があったのだ。「夢の中では、いくらオシッコしても
ちっとも満足できない」つうことです。つまり「おねしょ」をしていた
幼児の頃を除けば、我らのこころの奥深くには、「これはぜってえ夢だ
ぞ。油断するなよ!」とかいう警備官がいつも監視しているのです。
自分では気が付いていないけれど、この抑圧はかなり強いぞ。
「おねしょ」をして百回しかられて、子供のときに夢から現実性を奪い
取られていたのだ。




だから、我々は夢の中で気持ちの良い「放尿」が出来たときに、初めて
夢とリアルの境目がなくなって夢幻に遊ぶことが出来るのでしょう。
え〜、ではでは、おやすみなさいまし。俺はまだおっきしてるけどね。