考えてから走るか、走ってから考えるか

みなさん、こんばんは。秋の夜長をいかがお過ごしでしょうか。
って、元気な子はもうとっくに寝てますよね。



近隣でとても難しい課題が提起されておったな。事物への係わり方。
その物事の構造についてある程度見通しを持っていて、主体的にかつ
継続的に責任を持てなければコミットしてはいかんのか。いや、それは
大げさだから、少なくとも発言しても遺憾のかとか。




よく知りもしないのに、個人的な興味に刈られて、つまみ食いするのは
問題を徒に複雑化するし、かえって良くない結果をまねくかもよ派。
vs
主張、目的の理非に係わらず手段として悪であるものには、即座に対応
しなければ不作為の害を与える。継続性はリレーに委ねられるかも派。





非常に単純化したけど、両方ともに理ありと見るのが玉虫流。
ま、民主主義の原点かもね。日々の生業に追われている国民は政策上の
各問題に精通してもいないし、ましてや興味を持っている人も多くはない。
でも貴重な一票で民意形成にコミットしなくては国民主権そのものが
成り立たなくなってしまいますぅ。一方、為政者やメディアの煽動、誘導、
広報宣伝に乗せられてポピュリズムの愚民主義に陥る危険性は常に孕まれ
ている。



わたしは気質的に、出来る事から即時反応派にシンパシーを感じる方です
が、自らの危うさと関心の継続性には注意を払っていこうとは思います。
何時かネットであった、専門家と素人の問題にも通じるかもしれない。
其の問題を体系的に研究している専門家のみに真の発言権があるのであっ
て、素人の口出しはノイズに過ぎない、とするエセ専門化の発言に集合智
をもって愚民は反論していたような。
しかし、本当の専門家というものは素人にも分かるくらいに問題の本質を
説明できなければならないし、素人の常識的な判断が専門馬鹿の非常識を
凌駕することはまま起こりえます。専門家は自らの深い知識見識を顕にし
公の議論の俎上に乗せる義務はあるのでしょうね。そうでなくては権威に
寄りかかった象牙の塔で悪い水は淀んで腐るでしょう。





と変なほうに流れたが、要するにあまり参入障壁を高くして議論を阻害
するより、誰でも何でも自由に言えて、間違ったら即時反省修正できる
ほうが一貫性はなくとも多くの人々の関心を繋ぎとめ活性化出来るだろう
な、と仄かに感じてる次第ですぅ。それに日本人は結構均質化されてて、
その辺のオジサン、オバハンでも一旦立場を与えられれば、結構な論客に
変身できる例は多々見てますから、あまり心配するには及びますまい。




うん、立場が人を変える例は面白そうだから、そのうちに書いてみようか
な。ではでは、お眼汚しご容赦のほど。謹んで、おやすみなさいまし。