馬鹿は馬鹿である故に馬鹿ではない

今日は鉄火丼を食べた。中トロの上物。江戸時代の人も食べてたか
なあ。当時の人々は食が細くて脂身は好きではないとか聞いた。
最近は欲望を開花させるのが美徳とされている様だ。フランス絶対
王朝風で吉、極めて吉。大食いチャンピヨンの主婦とかお尻丸出しのタレント
とかね。で、全く関係ないけど、ドンブリを読んだ。



新一批判には素敵に賛同できます。オウム信徒と戦後?日本人の
対比・批判とか。ま、俺ももともと注目していた訳では無いのです
から感想と言ってもいい加減ですけどね。煎餅食ってTV見ている
選挙戦最強のおばはん軍団と同じくらいの知能ですから。



ルサンチマンと「過補償」動機なんてズシーンとくるな。学問には
数学における「美」以外にも、心理的な要因は多いのかもしれない。
ふと、この機会に新一に総括がほんとに無かったのか調べてみよう
と思った次第。



ソクラテスとその弟子とか、釈迦と舎利子とか、チズオとジョーユーとか、
徒に頭の良さそうな弟子を尊師が諭すことによって思想と言うものが
後世に伝わるのではあるまいか。で、諸君には俺が何を言いたいのか
はもうわかってるよね?要するに「弟子が師匠を作る」ってことですか。



あ、それで俺は何を言おうとしてたのか?ドンブリの論駁に賛同しつつ
も、なおかつ些か反発をおぼえたるは師匠のような余裕が見られない
所ではないだろか。「何を言ってるのかはわからぬが、何かを一所懸命
に言おうとしている」とこは認める。つうねらー並みの尤度は論客に
とっては必須ではあるまいか!先に論を展開した人には八目くらいは
置かないと公正とはいえません。