3月1日(木)あると思えば、ないものもあると

 薄曇り、暖かな弥生の空

 
 多くの近代哲学者は空間や時間に実体はないと言ってます。ではそれはいったい何なのか?実はそれは単なる認識のテンプレートであると。時間空間は、ものを秩序だって認識するため形式にすぎないのです。ものを捉える捉え方にすぎない。つまり時間空間は我々の内にある物差しという直観形式なのだと。でも、どの人間にもその形式があるから普遍性を帯び、客観性があるかのように錯覚します。
 実際に脳の一部に空間識や時間識を司る野があって、そこが損傷されると空間感覚がまったく無くなったり、時間感覚がめちゃくちゃになってしまう例もあります。格子越しに見たものをまったく識別できないとか、夢の中のように因果関係がでたらめになるとか。例えば上下が逆さまに見える眼鏡を掛けさせて生活させると、最初は戸惑うがすぐに慣れてしまい、それが当たり前のように思えるとか。眼鏡を外したときにもまた戸惑います。すなわち上下感覚すら習慣であると。
 常識的な日常の時間感覚は、均質に連続し、不可逆(後戻りできない一方向性)です。しかし認識する時間には色々な見方ができます。過去や未来は空想の産物で、実は永遠の現在しかないのだ!とか。実際に知識とかの枠組みを阻却してみれば、実感して現前するのは現在だけなのです。我々は如何に多くのことを知識に頼っていることか。しかしそれらは脳内で組み立てられた仮想現実にすぎないのかもしれません。この辺が認識主観のアポリア