9月28日(日)

こんにちは。くもり。引き続いて肌さぶい一日。

田村能理子の壁画展つうのを見てきた。西域風の襖絵。西安にも
同じようなのがあるらすい。タムラ・レッドといって独特の赤が
荒涼たる、それでいて豊かな砂漠の風を映し出している。「風河燦燦
三三自在」という題。人物の眼の強さが印象に残った。銀座、天王
洲アイル、広尾日赤、横浜みなと未来などにも壁画があるよ。


「知りたいというパッション」科学は数学で記述されるが哲学には
共感が必要である。それは一人ひとりの生き方であり、正解という
ものが無いからである。だから哲学は人に付随するとも言えるし、
百人の哲学者がいれば百通りの哲学があるとも言えます。科学は
科(細かく細分化された研究対象)を学するものですが、哲学は哲
を学するのか?哲とは何か?それは「私」と「私が考察するあらゆ
るもの」を含んだ全体にかかわるものであるから主観と客体を同時
に含むものである。それゆえ客体を再分化して研究の対象とする
学問にはなりえないが、「学問以前にあらゆる学問を可能にしている
もの」いえるのではないでしょうか。
当たり前の事が、突然当たり前でなかったと知ったとき、人は驚き
ます。この驚きが「ああ、自分はなんと無知であったことか!」と
無知の知」を引き起こし、これが「知りたい!!!」という情熱
を喚起します。これが全ての学問の始めであります。
でも、こういう知への渇望が必要かどうかは人それぞれであり、そ
れゆえ哲学は個人的なものであります。つまり「私」自身しか問い
を発し得ないが、その問いを掘り下げることにより世界を包み込ん
で、それを突破し、どの自分にも当てはまる共感によって普遍性を
獲得できるときがあります。この共感チェーンを「個別的普遍性」
と言って、哲学の学問的な基礎を与えることになります。
・なぜ私は生きるのか→なぜ人はいきるのか?
・なぜ私は存在しているのか→なぜ世界は存在しているのか?
・私とはなにか→人間とは、心とはなにか?
なぜ人は「なぜ」と問うのか?なんで、なんで、なんでだろー??