5月8日(金)満月の1日後。でも、月齢15。今夜も十分丸いでしょう♪

 天高き巻雲の晴れ。11℃~22℃、29%。湿度低く、爽やかな初夏晴れ。富士山が良く見えます。お、おー!東の方に上がった月がとてもでっかかった!

 エビノマスクを1枚購入す。ハイドロ銀チタンソフトガーゼマスクという優れもの。何回でも洗えるから、これと使い捨てマスクを交互に併用して見ようと欲す。とうとうマスクが尽きたら新大久保に買い出しにいこうかな?泡タイプハンドソープ詰め替えも購入す。アルコール除菌スプレーは未だに入手できず。とか、マスクとハンドソープとアルコール除菌スプレーに振り回される毎日。ちょっと情けない気もしますが。タハハ

 

 

 いじめ考:コロナにおける現実について。

 戦争や泥棒と同じように、いつまで経っても無くならない人類の宿痾のようなものの一つが虐めである。コロニー型生物としての進化上の意味があるのだろうか?でも、こういう考え方は悪しき社会進化学の陥穽に落ち込むことであろう。事実は必ずしもあるべき姿と同じではない。

 ここのところ、コロナ関連の差別やいじめを見ていると、いじめとは何かを深く考えさせる。感染者だけではなくして、懸命にコロナと戦っている医療関係者やその家族まで差別やいじめに会うと言う。自粛、萎縮生活が始まると、他県の者が忌避され車まで傷つけられると言う。またコロナパンデミックにともなって、世界的に他人種へのヘイトが拡がりつつある。

 小集団の中で異質なものを排除するのは、その集団の生き残りについて多少利点があったのかもしれない。しかし、集団の規模が大きくなりその生物的な範囲(150人くらい?)を超えると、いじめはむしろその集団を害するものとなるだろう。しかし長い間の本性はそう簡単には変わらない。大集団の中での適応行動は倫理という形で立ち上がったばかりである。

 個人的な視点に立てば、仲間に入りたいのだがついエキセントリックな言動をしてしまう者が排除の憂き目に会うようだ。いわゆる一つの「空気を読まない、読めない人」が集団の和を乱すとしていじめに会う。ということは、仲間と距離を置いて、孤独でも充足できるアウトサイダーはいじめに会うこともないだろう。シカトされても痛痒を感じないから、例えいじめがあっても、それをいじめと感じない。

 とは言え、そーゆー人格は少ないだろうから、社会倫理としては和とか絆とかの裏面をもっと注視して、その害を認識すべきである。なぜなら、それらの美しい言葉の背後には、必ず排除の論理が潜んでいるからである。その一見正義で美しい言葉に、いじめの本質が隠されているから、いじめがいつまで経っても無くならないのであーる。ドーデスジャロ?