11月10日(日)祝賀パレードの日、動物を通して自然に還る。

 祝賀晴れ!9℃~19℃、43%。帰ってきたらパレードの中継をやっていた。全テレビ局がすべてパレードを中継していた。これは電波の無駄ならざらんや!

 

 池袋方面に進出す:

 今年は鎌倉建長寺の虫供養に行けなかったので、養老孟司先生のお話を聞きに東京福祉大学まで足を運ぶ。「まる(猫)に学ぶ生き方」なんつう題名で、動物介在学会の一環です。

 ヒトの情動(喜怒哀楽)を脳活動で調べると、千人千様で決まったパターンはないそうです。それでも社会生活には必要だから、文化的、社会的に情動が形作られるようになったと。言葉(概念?)によって説明のシステムを作り、よく知っていることを関係ないことで説明しようとする。例えば、「水」は氷、冷水、お湯、蒸気など生活の中の実感でよく知っていますが、それを化学的にはH2Oなどと分子の結合で説明すると、分かったような気になるが、分かっていない。水の分子同士は帯電の偏りで+とーが引き合い氷や水のように固まっている。蒸留酒を熟成させるのは長い年月を掛けてアルコール分子を水分子が覆うからまるやかになるのですぅ。って、なんでこれが猫の「まる」と関係するんだよおおお?

 いわゆる猫が「フーッ」と背中を丸めるのは、別に怒っているわけではないのかもしれない。なぜならヒトの喜怒哀楽もその脳活動はみんな違うから。それがあると思うのは文化による社会的文脈で人為的に作られるんだと。ヒトは百聞は一見に如かずとかゆって、視覚に頼るが実は刺客の9割は脳内で作られていて、外界入力は1割に過ぎない。だから錯視錯覚は大きく分類しても100くらいあるし、こまかく分ければ千通りも検出されてまふ。世界の見方、見え方はイロエロあるんだから、拘るなっつうことかな?

 それで結局何が言いたいのかちんぷんかんぷんだったですが、そのメッセージは人為的な作り物よりも動物や虫などと親しんで自然に帰ろう!くらいかな?なにしろ1日中猫を見てると、猫は全く働かないし、居心地のいいところにいるし、腹が空くと餌に寄って来るが、食べるとプイと消える。つまりネコ(自然?)は中立のモノサシ(善悪、損得、毀誉褒貶などの価値観からフリーな)を示してくれると。箱根の「バカの壁ハウス」には鹿、猪、兎、穴熊、リス、などが増えてよく見かけるそーです。

 情動は理屈じゃなく、ただ湧き起るだけなんで、脳科学がそれを理屈にするから矛盾が生じる。自分を投影して猫もそーだ、他人もそーだというのは大間違いだそうです。察するに、無為自然で田舎で暮らせば自分を取り戻せて、IT人間・情報人間から回復できると言いたいのかな?どもども。

 

 ファインマン自伝から面白い話を引用してたから付記する:

 高校生の頃、頭の中で1から100までカウントしたら何回やっても同じ時間でできた。それで友人にも試したが少し時間は異なるが同じ時間でできたという。どーやら人にはそれぞれ固有のカウント時間というのがあるらしい。それでカウントしながら本を読んだら読めた。友人にもやらせたが本は読めないがお喋りしながらカウントできたという。それで有名な指揮者トスカニーニが「新世界」を指揮すると1時間の交響曲で毎回1秒の誤差もなかったと。そしてこの各人に固有のカウント時間は心拍数とは関係ないらしい。上記の話とどう関連しているのかはわっかりまへーん?養老さんも齢82歳、話が飛ぶのもむべなるかな。