11月20日(火)知ることの限界とは。

 少し雲の多い晴れ。9℃〜15℃、50%。すこーしづつ寒くなってる悪寒。

 小杉方面に進出す。少し早めの忘年会第1弾!自重して22時前には帰宅す。ヤレヤレ





 知らぬが仏とは:

 哲学では「無知の知」というソクラテスの言明が良く知られております。こりは、「世界のことを学べば学ぶほど、まだまだ知らないことがたくさんあるなあ!と悟って、知への渇望が湧き起こってくる。」つう哲学の真髄を語ったものです。即ち知ることへの身もだえるような愛→愛知→フィロ(愛)ソフィア(知)つうことなんですぅ。

 すかすこりは、哲学のことにとらわれず、ごく普通の(普通ってなんだ?)日常生活においても、知った気になってもなーんも知らんってことが、脳の本質的な構造により導かれるんだと。我らを取り巻く生活環境からは、それこそ無限の情報が発信されちょりもす。すかす脳の情報処理量をコンピュータに換算すると、せいぜい126bit/秒(1秒間に16文字?)くらいらしいんだ。

 それを超えた情報はすべて認識からこぼれ落ちて、消えてしまうんすね。それで大切な情報だけは見逃すまいと、意識の志向性(サーチライトみたいなもの)が進化的に生まれてきたんだと。つう意味では、我々は環境からの情報の大部分を垂れ流してるんすね。ドモドモ

 だから、如何におつむの良い人が注意を集中して、周囲の環境からすべての情報を認識しようったって、原理的に無理なんす。つまり世界の事の大部分は、我らの認識をすり抜けて記憶に留まらないと。ま、こういうことを客観的に理解できれば、全てを把握してるなんてとても言えんでしょう。

 人の話しを集中して聞いてても、何がしかの情報は抜け落ちてるもんなんす。こりは、脳内情報処理の制約として厳然たる事実です。特に、志向性つうのが悪さ(いや善悪の価値観フリーなんすが)して、関心が向かない事項の殆どは抜け落ちるでしょう。だから人間世界のコミュニケーションには、「言った言わないの争い」が頻発するんです。

 「無知の知」に対する理解をここまで深めねば、係争ってのは永遠に続くでしょうね。でも、この世界の全てを知るようになったら、逆に生きてる意味を喪失して、動物界の愉悦に戻るんでしょうね。ハイハイ