10月5日(月)ポヨ〜ン

 曇り。17℃〜19℃、53%。




 存在論の入り口:

 カントの認識論から、存在に関心を引き戻したハイデガーの「存在」とは「Sein]と言ふ。これ英語では「Be]なんであーる。日本語では「〜がある」と「〜である」に分かれるが、印欧語では一緒なんであーる。ですから「私の存在論」には、「わたしは〜なんであーる」つう語義も含まれていて、「わたしは何で今ここに存在するのか?」つう根源的な問いばっかしじゃないことに、今気が付きました。言語の違いって大きいよね?欧州だって、デカルトあたりまではラテン語で哲学してたんすから。そいで顔が怪しいハイデガーデカルトの認識主観が客観的な対象を科学的に分析するってな構図を逆転させて、「そんなことを整理整頓する前に、既に個々の人々はこの世界に、慣れ親しみつつ住んでいたんだよ♪」ってな逆転の発想で、日常的な平均性(普遍的?)から個人個人の生き方に存在(〜である)を引き戻したのでしたぁ。(玉虫の「バカセの愛した哲学」より)

 バカセは戸惑ったときはいつも、難しい哲学の話をするのであった。でもハイデガーって完全にドイツ語とは切り離せない存在だよね?既に。少しでもドイツ語が分からない人にはチンプンカンプン?タハハハ



 バカ者どもが、ダーウィンの進化論を曲解して「優性論」なんつう弱肉強食・適者生存を捏造したように、ナチスハイデガーを曲解した可能性はあるなと、斯様に曲解した次第ですぅ。この辺は思い付きに着き、もそっと考察が必要?どもども。







 ちょっつ、明日はバカモノ共の夢の跡にでもゆってみようかな?この世界は作り物であり、かつ現実なんであーる!物自体は確かにありそーなんですが、それは見方次第で千変万化!あざとい〜♪(注:あざとい・・・やり方が露骨で抜け目ない。あざ(戯)るが語源か?)