1月24日(火)いたずらに主観の問題で苦しんでいる哲学者は少なくはない

 こんにちは。夜来の降雪が寒気を呼び込み、路面凍結。
転倒者が続出とか。1℃ー5℃。



 重心力学的にいへば、威張ってふんぞり返っている奴が転
びやすいといへるでせう。逆に体を屈めて揉み手している腰
の低い人は転びませぬ。何事も、普段からの心掛けが大切れ
すゥ。














 さて突然ですが、主観の壁は超えれるのか。

これは論理的には超えれません。他人が見ている緑色は自分
が感じているこの緑色と同じだというのは、他人の心に侵入
出来ない限り分からないからです。でもこころの物理主義を
採れば、一つの細胞が分裂してかだらを作り、脳を作り心を
作るのですから、その過程をすべてコントロールしているD
NAが殆ど同じなら、自分も他人も殆ど同じようにものを感じ
ているのだろうなと可也の確度で推測できます。ま、あくま
でも推測にすぎませんが。
一方、こころの天来説(イデアのような人間の変わらない
本質が生まれ出たあとに天から注入される)を取っても、そ
の天上の本質は同じものですから、地上の人間の感じ方も
多少異なるとはいえ、ほゞ同じだといへます。














 ゆえに絶対超えられない自他の感覚の壁があっても、人も
自分と同じようにこの世界を感じているのだと考えて暮らし
ていても大きな齟齬は無いはずです。
「わたしの見ているこの緑はホントに他の人にもこのような
緑に見えているんです。」
「わたしの感じたこの美しいくも情感あふれるこの音色は、
ホントに他の人にも同じように聞こえているんです。」
「わたしが今、自分自身でこのようにリアルに感じている
ように、他の人も世界をこのようにリアルに感じているんで
す。」


 決して証明できないけれど、それを証明しようと欲する
アフォーな人々。嗚呼! という意味では、日常の生活人の
方が偉大な哲学者よりも余程まっとうだといへるのれす。
だって根拠があろーがなかろーが、そうやって暮らしていく
しかねーんですゥ。
















 むかしは神とかあの世だとかが超越的な存在論のネタで
したが、近ごろは意識とか主観とか自由意思だとかが超越論
的に語られております。なんか屁のように掴み切れない永遠
の合わせ鏡の中での自己撞着って気もしますが、考えること
自体が目的なら、なんのイチャモンも付ける気はねーでげす。











ドド~~~~~ン パッ