雲の多い晴れ。5℃~14℃、49%。夜曇り。
新春マージャン:
初マージャンにて快勝する。また楽しからずや♪3ペコにて一人勝ちなり。これも七福神の功徳ならすや!近くの焼き鳥屋にて打ち上げる。
PCはマカフィーに乗っ取られて、グルグル回っているのみ。明日OSの再ローディングをトライして見よう!今日はもうよぱらたですぅ。どもどもヾ(´ω`=´ω`)ノ
白っぽい快晴。5℃~14℃、46%。綺麗な和服姿の新成人が初々しい。みんなしやわせになってほすいだすぅ。
OS再インストールだん。いっとき良くなったが、セキュリティ・ソフトがフルスキャンを始めて、そのまんま終わりません。明日の朝までやらせとこう。しこめのふかなさけ?
概ね曇り。3℃~10℃、53。
PCがまたストールした。OSの最インストールが必要かな!ザンネン
曇りのち晴れ。5℃~10.5℃、53%。満月♪
銭湯の旅:
三ノ輪から入谷を通って鶯谷まで、入谷七福神を辿る旅ですぅ。まずは日比谷線三ノ輪駅に集合す。この辺は明治と昭和が交錯するところ(って単に通りの名前がですが)。そこからすぐ近くにある「弁天総本店」というレトロな鶏料理屋で腹ごしらえ。ここは下町の芸能人がよく集まるところです。そこからすぐ近くの寿永寺(布袋尊)に参拝す。
一葉記念館の脇を通って南下し、飛不動(恵比寿神)へ、昭和通り方面に進むと弁天院があります。ここは不忍池の弁天様と姉妹です。東にあるので朝日弁天と称します。昭和通りに沿って南に進むと入谷に至る。ここで法昌寺(毘沙門天)、英信寺(大黒天)を経由して、恐れ入谷の鬼子母神(福禄寿)まで一気に踏破す!さてどんじりに控えしは元三島神社の寿老人に参って満願成就と成りし次第。(法昌寺にはコメディアンのたこ八郎が成仏したたこ地蔵さま、英信寺には弘法大師御作の三面大黒天があります。また入谷鬼子母神はあさがお市でも有名です。ほんとは鬼の角がない字なんですが変換できませんです。)
そこから尾久橋通り方面に進むと、豆腐料理の名店「笹の雪」の前を通って、更に少し進むと目的の銭湯「萩の湯」があります。都内最大級の銭湯を謳っているだけあって、岩風呂から炭酸泉、薬湯、マイクロバブル湯、ジャグジーのマッサージ湯、サウナから水風呂までスーパー銭湯並みの施設で470円です。一応全部試してたらかだらはホッカホカ♪で旅の疲れも吹っ飛びました。付属のレストランでビールを飲みながら打ち上げ♪帰りがけに近くの「子規庵」と「ねぎし三平堂」を見学して散会す。総歩行数は約1万2千歩なり。いや~まだまだ都内の銭湯は踏破しつくせませんですぅ。ホカホカ
快晴!5℃~15℃、32%。北寄りの風やや強いが、昼は暖か。お月様がだんだん肥ってきますたよっと。
人災とは:
災害に起因して人がその被害を更に増幅してしまうことを指す。これを防ぐには何が重要なのか?わだすは普段見えないところ、影での補助作業、非常用の手段、縁の下力持ちが大切だと考えます。
普段から見えている通常機能、基本機能、主要な機能は誰もが気にして注意を怠りません。しかし、普段は見えない補助機能は見落とされがちなんすね。こういうところに目が届くようなシステムが災害時の人災を防ぐことになります。
例えば昨年の台風19号で電源が喪失した武蔵小杉の高層マンションでは、地下に電源設備があったのが敗因でした。地上にあればそう簡単に水没しません。この時も、それに気が付いて事前に土嚢を積み上げたところは無事でしたが、地下にまで目が届かないマンションは大打撃を受けました。
雑居ビルの火災では非常口や非常通路が原因で災害が大きくなることが多いです。普段使っていないところに荷物を積んだりしているからですね。
見えないところは無視ってな心理が一番大きな災害を生んだのが、福島第一原発の事故でした。発電しているところに電気が来ないなんてありえな~い。補助電源なんてどこにあってもおんなじ~!見えないところにお金を掛けるなんて無駄です~。なんて心理が透けて見える対応ばかりして、海辺の地下から非常用電源を移動しませんでした。
福島第一原発はもともとアメリカ設計の原発を導入したもので、しかも建ってからかなーり古い原発でした。元の設計はアメリカ内陸部用でしたから、電源喪失は竜巻やハリケーンが想定されてて、補助電源を地下に置くことはそれなりに合理的でした。でも日本の海岸に同型を導入するときに、最も重視すべき非常用を軽視して、そのまんまの地下に設置したのが誤りの元。その後、見直す機会は何度もあったのに、そんな使うか使わないか分らんところにコストは掛けられん!とそのまんまの状態で大津波をむかえた悲劇でした。
今でも大規模サーバーとか病院とか、国家の枢要な施設とか、非常時にフェイルセーフでなければならないところはたくさんあります。果たしてそのような施設で、見えないところ、普段は使わないところ、非常時にしか役に立たない所に関心やコストが払われているでしょうか?まことに疑問に存じます。どもども。
曇りのち寒雨しとしと、午後上がり晴れ間。4℃~8℃、93%。さぶしっ!
「気温17℃まで上がり、春の嵐か?」つう予報は全く当たらず、終日さぶかったですぅ。最新のディジタル予報も斯くの如しっ!って前線の上げ下げは予想が難しいんですね。タハッ
ぼけの哲学とは:
難行苦行を通して徳を積み最後は悟りを開いて大往生とか、壮大な思考の殿堂を築いて知の巨人となるとか、直線的に大きな物語を通して解脱に至るつうような人生を理想とする思想もありまふ。
でもね、人間つうのは身体を持った動物ですから、自然の摂理からは逃れうる能わず。みんな等しく、産まれて成長し成熟して枯れて死むと。知の巨人たるイマヌエル・カントでさえ、70歳を過ぎたらボケて痴ほうになり、日常生活さえままならなくなったと言ふ。
この視点に立てば、「終わりよければ全てよし!」なんて結果主義、目的志向、立身出世、・・・なんてとても言えませんよね?そーです、すべては生きている限りのことにて、その生の真っただ中におけるプロセスの美しさに賭けるしかあーりまへん。
そう、「今ここ」しかないっ!つう現在主義ですね。ヴィヴィッドな現在以外はすべて妄想です、イリュージョンです、幻です。この現在を生き尽くす思想こそ、今求められているものでしょう。
って、そりは生き物がみんなやってる生き方じゃないか?「空飛ぶ鳥はなんで明日を思い患おうか」なんて聖書にも書いてあるよ。そーです人間も生き物なんですから、自然に従い自然に身を委ねて嫋やかに一生を終わるのが無理のない在り方(敢えて正しいとか言いませんが)なんですぅ。
動けなくなったら動けなくていい、ボケるときはボケたらよろしい、と開き直るところからぼけの哲学は始まるのかな?精神世界から動物世界に降りてくるとイロエロと見えてくることもありまふ。アチャッ